「心配の原因」

 明日は、成人の日です。幼い子が成長し、大人としての歩みが期待されるお祝いの時です。
生まれた子供は必ず成長しますが、この成長のために必要なものはとても多いでしょう。
しかし、子供自身にとって全く必要ないものがあります。それは、心配であります。
私たちクリスチャンは、神様の子供です。つまり、神様が私たちを親が子を育てるように育ててくださることを意味します。それにも関わらず、私たちは心配の中で苦しむことがあります。私たちは何故、心配してしまうのでしょうか。聖書の言葉に耳を傾けましょう。こう記されています。
「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」(24)
心配の原因は、私たちが二人の主人に仕えようとしているからだということが分かります。
聖書は、二人の主人に仕えることはできないと教えています。しかし、私たちは二人の主人に仕えようとしているのです。心配しないためには私達の本当の主人が誰であるかを知ることが大事です。そして、その一人の主人に従おうとする姿勢を保とうとする決断、努力が必要です。
「仕える」というのは、支配を受ける、認めることを意味します。そして、それに従っていくのです。
別の言葉でいうと「切にそれを求める」ことであります。
何かの支配を受けて、それなしでは不安を感じ、常に求めることが「仕える」の意味です。
私たちが普段、切に求めているものは何でありますか。私達の心を支配しているのは何でしょうか。
もし、私たちが神様以外の何かを切に求めているならば、私達の心配の種はそこにあります。
クリスチャンは神様以外の何かに支配される者ではないからです。ただ神様のみに支配される者です。

「心配の無益」

心配することは自然なようで妥当のようにも見えます。しかし、心配には何の力もないことをイエス様はこのように教えられています。
「あなたがたのうちだれかが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。」
どういう意味でしょうか。それはつまり、心配したことによって果たして何かが変わるのかということです。心配することでは何一つ変えることができません。「いのち」という言葉は「身長」とも訳される言葉です。背が低いからといって沢山心配すれば背が伸びるでしょうか。そんなことはあり得ません。心配することは何かを変えることができません。心配する者を苦しめること以外に何も期待できません。このことは心配という言葉の意味からもよく分かります。
英語で心配をWorryと言います。この言葉の中には、猛獣が狩りをするときに、獲物の首をくわえ、窒息させて殺すことの意味があるのだそうです。とても恐ろしい意味ですね。
ですので、ある心理学者は、心配することを「ゆっくりと自分自身を殺す自殺行為だ」と言ったそうです。
心配することは自ら自分の首を絞めて窒息させる行為であります。このように、言葉の意味からも何一つ有益なことがないということがよく分かります。
この数日間、個人的にとても心配なことが起こりました。なかなかいつも通りの生活をすることができませんでした。恐らくその事に飲み込まれてしまい、心配に支配されていたのでしょう。すべての思いや心がその問題に集中し、求めるもののすべてもそれに関することでした。いくら深く考え込んでも解決の糸口が見えなかったのです。
このことを通してよく思い知らされたことがありました。それはいくら心配しても何も変わらないこと。当たり前のように心配しているが、それによって私自身がより苦しくなっていくことを深く教えられたのです。そして、心配する心からは何の知恵も生まれないことをも深く教えられたのです。
神様はこの御言葉を通して私がどれほど無駄なことをしているかを確認させてくださいました。
そして、もう一度神様の御言葉に真剣に耳を傾けるようにと私を導いて下さいました。また、心配するのではなく信じるようにと教えてくださいました。

「心配は救われた者には相応しくない」

主イエスは、信じる者に心配は相応しくないことをこのように教えておられます。
「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます」(31-32)
私達の心配のほとんどは衣、食、住に関することでしょう。私達の生活にこれらはなくてはならないものです。食べなくても大丈夫な人はいません。衣服が要らない人もいません。住まいはなおさらです。しかし、これらは生活のために必要なものであって、これ自体が生きる目的ではありません。
これらに対する心配の中で、もっぱらこれらを切に求めるのは異邦人が行うことだと教えられています。
異邦人は、イエス・キリストを信じない人々で、父なる神様の愛を信頼しない者達です。
しかし、私たちはイエス・キリストを信じ、神様を父と呼んでいる者達です。
この父なる神様が私たちに必要なものが何であるかを知っておられると記されています。
父なる神様が知っておられるということは必要が満たされることの意味も含まれています。
親は子供に何が必要であるかを知っていて、必ずそれを備えてあげるのでしょう。親である限りこのような心は誰もが持つはずです。親心というのは自分の子のためであるなら力を尽くして備えてあげようとするものなのです。
そうであるならば、父なる神様が私達の必要を満たして下さらない理由はどこにもありません。
聖書にはこう記されています。
「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」(ローマ8:32)
イエス・キリストを信じる私たちにはこのように約束されているのです。
私たちはこのことを信じる必要があります。信じることは心配をやめることです。
私には3人の子供たちがいますが、もし私の子供たちが衣、食、住に対して心配しているとするなら、とても悲しくなるでしょう。
私達の必要を知っておられ、与えて下さると約束しておられるのに、私たちがそれらのことを心配していると神様は悲しくなるのではないでしょうか。
子供に求められることは自分の親を信頼することです。同じく私たちに求められることは私達の父である神様を信頼することです。人は誰であれ、神様の前では子供のような存在ですから。
子供には心配することは要りません。親を信頼することがより求められるのです。
心配することは救われた私達には相応しくないことです。私達には父なる神様がおられるからです。
信仰こそが私達に最も相応しいものなのです。

「第一に神の国と義を求める」

それなら、私たちが信仰を持って切に求める必要があるのは何でしょうか。このように記されています。
「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(33節)
神の国とその義は、神様の臨在が現れる事柄、時間、場所とも言えます。そして、それこそが私達に約束されている将来と希望であります。どんなに素敵な場所であっても、神様が共におられないならそれは本当の将来でも希望でもありません。
このことから私たちが神の国と義を第一に求めるのは、神様のおられる事柄、時間、場所に私達もいられるように求めることとも言えます。私は自分の救いと召しの原点に戻り、今私が第一に神の国と義を求めることをどのように適用すべきかを祈り求めました。そして、次のようなことが教えられました。
‘神様の臨在が現れる時間は現在である。そして、その事柄は伝道の働きであり、そのためにこの教会に私たちは導かれている。ならば、私が第一に求めることはこの教会のことである’
私はたまに、いつかは国へ戻るのではありませんかという質問を受けることがあります。今までは、そのことを深く考えたことはありませんでした。しかし、さっきのように考えると、自分にとって神様の臨在が現れるのはいつか私が帰るかも知れない故国ではなく、今自分がいるこの場所であることは明白です。
以前はこのような質問にあいまいな態度を持っていましたが、今回この御言葉を通してそれは私がふたりの主人に仕えようとしているような態度を取っていることが深く教えられました。もう一度心を改めて神様の前で祈りました。教えられているように今、私をこの教会と共に歩ませてくださいと。
皆さんにおかれましては、神の国と義を第一に求めることは、具体的にどのようなことだと思いますか。
切に求めるべきだと思うことは何でしょうか。
ある方は主婦として、母と父として、夫と妻として、様々な形で神様は皆さんを召して下さったのです。願わくは、召された者として相応しく神様の国と義を第一に求める生活をしましょう。
そのために心配は要りません。私達の現在の歩みは偶然の産物ではありません。神様の導きです。導いて下さった神様は私達に何が必要であるかよく知っておられ、満たして下さいます。
従いまして、心配をやめて、神様の国と義を第一に求める歩みをしましょう。心配は何も変えられませんが、信仰はすべてを変えます。この信仰をもって今年も共に歩みましょう。