「神様のご計画は幸いである」

 

「まことに、主はこう仰せられる。バビロンに70年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。」(29:10)
この御言葉は、エレミヤという神様の預言者がバビロンにいるイスラエルの人々宛に送ったものです。
この御言葉を受けた人々は、バビロンによってイスラエルが滅ぼされた時、捕虜となって強制的に移住させられた人たちです。彼らに与えられたこの神様の御言葉は、幸いの約束が果たされると記されています。
捕囚生活をしていた人々にとって、自分たちへの国へ帰ることができるとの約束が与えられることは最高の喜びなのでしょう。
彼らは何故バビロンでの捕囚生活を強いられていたのでしょうか。
それは、彼らが神様の御言葉を無視したからです。神様を愛することと神様が示す生き方を捨てて、周りの国の人々の生き方に倣い、歩み続けたからです。
神様は幾度も彼らに神様の民としてふさわしい生き方を求められました。警告もしました。時には鞭を当てることもなさいました。そのすべては、神様がご自分の民を愛し、彼らとの親しい交わりを求めたからです。しかし、イスラエルはそのような神様の心を知ることができず、知ろうともしなかったのです。
それゆえ、彼らは神様から何回も警告されたように、滅びの悲しい時を迎えることになりました。
しかし、それは、神様がご自分の民を愛される故に、許されたことであります。そして、その悲しく絶望的な状況の中でも神様は幸いなご計画を持っておられるお方であることを彼らに示されているのです。

 

私たちが持っている神様のイメージというのは、多くの場合厳しくて怖いものではないでしょうか。
バビロンに強制的に移住させられたイスラエルの人々のような状況に直面している場合はよりそうだと思います。私たちは因果応報の考え方が強く、その中で持っている神様のイメージの多くは罰を与える方だというものです。実は私自身もそのような考え方が強い者でした。
父がとても厳しい人でしたので、余計にそうだったかも知れません。
しかし、神様ご自身が持っておられるご計画はこのような私たちの思いとは違うものだと記されています。
「幸いな約束を果たす」と記されています。
神様は厳しくて怖いお方だというイメージを持っていた私にとって、この御言葉は耳を疑うようなものでした。そんなはずはないと思いました。
恐らくイスラエルの人々にもそうだったのではないでしょうか。
彼らは何故自分たちがこのような状況になったかをよく知っていました。
つまり神様の前に出て、神様に従うのではなく、自分勝手な生き方を、周りの国々と同じ生き方をしたからです。暗鬱な状況を、自分達の過ちの故だから仕方ないとあきらめていたところでしょう。
もはや神様は自分達を赦すことなく、これからは自分たちの過ちを償うような生き方をしなければならないと思っていたでしょう。
もし、今現在とても厳しい状況の中で、このようになってしまったのは自分のせいだと思っている方がいらっしゃるなら、この神様の御言葉に耳を傾けてください。神様は私達に「幸いな約束」を果たそうとしていらっしゃるのです。現状は厳しいかもしれませんが、神様を信じて、頼る私達には、厳しさの中で「幸いな約束」を果たそうとされる神様のご計画があることを覚えましょう。
神様はご自分の定められた時が満ちると必ず幸いな約束を果たして下さるお方です。この神様の信じ、希望と忍耐をもって神様のご計画を、御言葉を信頼しましょう。

「神様のご計画は希望と将来を与えるものである」

 

続いて、神様はこのように語られています。

「わたしは、あなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。主の御告げ。それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」(29:11)

皆さん、この御言葉をこのまま信じられますか?
未来への展望がなく厳しい状況の中にいる人にとって、将来と希望があるというこの御言葉は簡単には受け入れられないものです。恐らく、今をどう生きれば良いのかで悩んでいる人は、今の状況をどうにかしてもらいたいという思いが強いはずです。今こんなにも辛い中にいるのに、未来のことを言われてもあまり嬉しくはありません。状況が厳しければ厳しいほどこのような気落ちは増すと思います。

私は16年前に日本へ来ました。会社を辞めてから、約1年後に来日しましたが、その内半年はとても厳しい生活でした。経済的な面もそうでしたが、将来への不安が一番の苦しみでした。多くの人が私を励まし、御言葉をもって勇気を与えてくれましたが、変わらない厳しい状況のせいで、逆に反発をしてしまった記憶もあります。そのような状況の中、聖書を読んでいるうちにこの御言葉に出会いました。

それから、16年が過ぎた今ふり返って見ると、神様はこの御言葉のように私に将来と希望を与えて下さったことがよく分かります。神様の御言葉の通り、16年前の私に将来と希望が与えられ、現に至っているのです。

そして2016年今現在、私はまたもや厳しい状況の中に置かれています。
去年の11月、教団50周年の記念総会の時に発表された2016年の年間聖句を確認してとても嬉しかったです。自分の記憶の中では、来日以来、集会の中でこの御言葉に出会ったのは初めてでした。
そして、この御言葉をもってなされたY先生の説教にも大きい恵みを受けました。

16年前に、この御言葉に出会って、喜びと平安が与えられたものの、純粋に信じることができなかった自分でした。しかし、神様のご計画通りになっているこの現実の中で生きられています。
再び、厳しい状況の中で与えられたこの御言葉ですが、今回は純粋に御言葉を信じようとしています。

私たちは私達の弱さの故に、神様の御言葉を、信じない場合があります。
聖書の中でも、いくつかのその例を見ることができます。
アブラハムとサラがその一つです。信仰の父とも言われるアブラハムがそうであったことはなかなか考えにくいです。
しかし、神様がアブラハムに子供を与えるとおっしゃったときに、アブラハムはそのことを信じませんでした。自分とサラの老いた体のことを思って、そんなことはあり得ないと言っていました。
バプテスマのヨハネの父であるザカリヤもそうでありました。
神様のみ使いから子が与えられると告げられた時、ザカリヤはそれを信じませんでした。彼も自分と妻の体の限界の故に、神様の御言葉を信じることができなかったのです。

私達もこのような弱さを持っているのです。ですので、神様の御言葉を100%信頼できないこともあります。しかし、この希望と将来が与えられるという約束は、私達の現状に基づいたものではありません。アブラハムとザカリヤの現状に基づいたものであったならば、彼らに子が生まれることはなかったでしょう。しかし彼らを通して子が与えられました。つまり、神様の御言葉は私達の現状に左右されるものではないのです。

神様を信じる人々のためには、神様はご自身のご計画の中に、平安がある将来と希望を与えられることが約束されているのです。この厳しい状況は、神様のご計画がどのようなものであるかをよりはっきりと教えられる良き時でもあります。神様のご計画を信じ、この一年間、共に歩みましょう。

 

「将来と希望は神様ご自身である」

 

次に聖書はこう記されています。

「あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。わたしはあなたがたに見つけられる。主の御告げ。わたしは、あなたがたの繁栄を元どおりにし、わたしがあなたがたを追い散らした先のすべての国々と、すべての場所から、あなたがたを集める。主の御告げ。わたしはあなたがたを引いて行った先から、あなたがたをもとの所へ帰らせる」(29:12-14)

それでは、私たちは何をする必要があるでしょうか。
神様のご計画の中にある将来と希望は、神様ご自身が共におられることなしでは考えられません。
国へ帰ることができたとしても、彼らの敵がすべて滅ぼされたとしても、神様ご自身が共におられないことは、無意味なものです。
しかし、良く考えてみると神様は私達から離れたことがなく、私達を忘れたこともありません。
私たちが神様から離れ、神様を忘れたのです。
神様が約束してくださる将来と希望は、私たちが神様を求めれば、神様に出会うことができる状況を意味しています。
神様は厳しい状況を通して、私たちが心を尽くして神様を求めることを教えておられます。そうすれば、私達に見つけられると約束されています。ここに、「もし」ということばが記されています。
もし、求めれば見つけられるのである。もし、求めなければそれはできないということです。
神様は、常に、ご自分の民、ご自分を信じる人々に希望と将来を与えようと計画されています。
しかし、求める者だけがそれをものにすることができるのです。

新しい時が与えられ、これから私達に将来と希望が与えられると約束されています。私はこの御言葉を信じ、心を尽くして神様に祈り、神様を求めようとしています。
私達共に神様を求める歩みをしませんか。平安が与えられ、将来と希望が与えられる神様の素晴らしいご計画が成就されることを共に体験しましょう。