「こうして」

 

今日の聖書箇所、最初の部分です。
「こうしてボアズはルツをめとり、彼女は彼の妻となった。彼が彼女のところに入ったとき、主は彼女をみごもらせたので、彼女はひとりの男の子を産んだ。」(ルツ記4:13)
ボアズとルツが結婚し、子供が与えられたということです。二人がどのようにしてここまでたどり着いたかを聖書は「こうして」と一つの言葉で表しています。
それでは、「こうして」という言葉の中にはどのような事柄が含まれているでしょうか。
ルツ記は、ナオミという女性がモアブの地から故郷ユダヤのベツレヘムに帰って来るという内容から始まっています。そして、ナオミと一緒に帰って来たのが嫁であるルツでした。
ルツはモアブの女性です。ユダヤ人から快く迎え入れられることのない異邦人であり外国人です。
当時は異国の地で、また異民族の中で生活するためには様々な苦労が強いられていました。
彼女は生活のために、落ち穂を拾いに出かけました。たまたま、その畑はボアズのものでした。
彼女が落ち穂拾いをしているところに、たまたまボアズがやって来たのです。ボアズもルツの話はうわさで聞いていたので、親切にルツが自分の畑で落ち穂拾いができるようにしてくれました。
この出会いからいろいろなことを経て、ボアズとルツは結婚へとたどりつきました。

ナオミとルツの立場からすると、紆余曲折の道のりをたどりここに至ったのです。このように、「こうして」という言葉の中には紆余曲折の人生の旅路が潜められています。
ボアズとルツが結婚に至るまでの間、実は一回も神様が何かをなさったとは言及されていません。しかし、2人の結婚の後にこう記されています。「主は彼女をみごもらせたので、彼女はひとりの男の子を産んだ。」ルツ記の中で、初めて神様の働きが直接記されている個所です。

これは、神様がこの時だけ働かれたという意味ではありません。ここに至るまでのすべての歩みが神様によって導かれたことを意味しています。決定的な瞬間に神様のお働きを表して、それ以外の時にも、見えない神様のお働きがあったことが教えられています。紆余曲折に見える歩みの中に、真実な神様のお働きがあると。

ここで、私達の教会の歩みを振り返ってみたいと思います。
私達の教会の歩みも、9か月という短い期間ではありますが、様々な紆余曲折がありました。
しかし、神様は4月5日に初めての礼拝を捧げることができるように助けてくださいました。
何より、その時3人の方を送って下さり、恵まれた礼拝とさせてくださったのです。
もっと素晴らしいことは、その3人の方が7月5日、10月11日に全員教会員となったことです。
神様はこのようなことを通して、私たちの歩みが神様によって導かれていることを確かめさせてくださいました。
そして、12月23日のキャンドル・サービスにも神様がそのことを明白に教えてくださいました。
ある方は会堂が狭くなるほど人が集まるように、ある方は一人でも新しい人が来るようにと祈ったそうです。神様は見事に両方のお祈りを聞いて下さいました。
狭い会堂に多くの人が集まり、また新しく来られた方も与えられ、喜びと感謝に満ち溢れた一時を過ごしたのです。
こうして、私たちは今ここで礼拝を捧げています。神様は、私たちの見えないところでも働かれています。そして、時には私たちが神様ご自身のお働きを確認することができる恵みを与えて下さるのです。
2015年、一年間の歩み中で、神様のお働きであることがはっきりとわかった時、またそれ以外のすべての時においても真実なお働きをなさってくださった神様に心よりの感謝をしましょう。

 

「私はルツのようである」

 

ルツはボアズが買い戻す権利を諦めず行使したことによって彼の妻となりました。
「女たちはナオミに言った。イスラエルでその名が伝えられるよう、きょう、買い戻す者をあなたに与えて、あなたの跡を絶やさなかった主が、ほめたたえられますように。」(ルツ4:14)
ボアズが買い戻す権利を放棄したならばルツは依然と苦しい状況が続いたでしょう。
買い戻す権利を放棄することは非常に簡単なことです。しかし、行使することは責任を負わねばなりません。
ボアズは、そのことを承知の上で、彼女を受け入れたのです。
私は自分のことをルツと似ているのではないかと思いました。
故郷を離れ、他国で外国人として生きること。ボアズに出会い、恩恵を受けることなどからそのようなことを思うのです。
ルツは、自分に親切を施すボアズに外国人である自分にどうして親切なのかと尋ねたくだりがあります。
自分も神学生の時からとても親切にしてくださるF先生ご夫妻のことを思いながら、全く同じ問いをしたことがあります。F先生ご夫妻は今も私をご自分の息子のように親切に接して下さっているのです。
もし、先生ご夫妻とI教会が私を受け入れてくださらなかったならば私は今どうなっていたか分かりません。
恐らくここで皆さんと共に礼拝を捧げるこの幸いはなかったでしょう。
そうです。先生ご夫妻に出会い、I教会に受け入れられ、そして紆余曲折の道のりを経て、今ここで皆さんとの出会いが与えられています。
私にとってはF先生ご夫妻とI教会、そして北松戸福音教会の皆さんがボアズのような存在です。このことを思うと言葉で言い表せない感謝で胸が染みるほどです。
ルツが外国人である自分を信頼し受け入れてくれたボアズにどれほどの感謝と喜びを持っていたかを、私は北松戸福音教会の皆さんを通して体験しています。

今年の最高の喜びは神様が皆さんに出会わせてくださったことです。
このことを心深く留め、これからも皆さんと共に歩もうと願っています。このために神様は真実にお働きをなさってくださると信じています。

 

「キリストにつながる」

 

神様がルツとボアズに男の子を与えられましたので、彼らは新しいいのちを授かることができました。
このことは、彼らにも周りの人々にも大きい喜びを与えています。そして、その喜びは神様の御名を褒めたたえることにつながっています。
「女たちはナオミに言った。イスラエルでその名が伝えられるよう、きょう、買い戻す者をあなたに与えて、あなたの跡を絶やさなかった主が、ほめたたえられますように。その子は、あなたを元気づけ、あなたの老後をみとるでしょう。あなたを愛し、七人の息子よりもまさるあなたの嫁が、その子を産んだのですから。」(ルツ4:14-15)
夫と息子たちを失い、苦しみの中で帰って来たナオミに、子孫が与えられました。周りの人々はこのことを通して、神様の御名をほめたたえています。
新しいいのちが与えられたそのこと自体大きい喜びであります。しかし、ルツ記を通して神様がなさろうとしていることは、ルツに与えられた子がキリストにつながるということです。このように記されています。
「その名をオベデと呼んだ。オベデはダビデの父エッサイの父である。」(ルツ4:17)
「オベデの子はエッサイ、エッサイの子はダビデである」(ルツ4:22)
ダビデの系図が記されて、終わっています。
新約聖書の最初にあるマタイの福音書はこのように始まっています。
「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」(マタイ1:1)
ナオミの孫として、ボアズとルツに与えられた男の子は、キリストにつながる大事な人です。
神様が、この子を与えられたのは、キリストがこの世に来られるための重要なお働きだったのです。
子が与えられたボアズ、ルツにも大きい喜びですが、喜びと共に神様の目的はキリストにあるのです。
先も申し上げましたが、ルツのように私も皆さんと出会い、共に礼拝を捧げられることを大いに喜んでいます。
そして、この喜びとともに新しく救われる人々が与えられること、人々がキリストにつながることを切に祈り求めています。
ルツとボアズに子が与えられたことを通して周りの人々が喜び、神様をほめたたえたように私たちの教会にも、霊的ないのちが与えられ、神様の御名がほめたたえられる素晴らしい祝福が与えられますようにと願います。
今年の最後の礼拝と共に、心から願うことは、教会にキリストにつながる新しい霊的ないのちが生まれることです。ルツとボアズに男の子が与えられ祝福されたように、教会にも新しい霊的ないのちが与えられることによって祝福される喜びを味わうことができるのです。
今年神様が与えて下さった多くの恵みと祝福に感謝をいたします。同時に来年には新しく救われる人々が与えられることを祈り求めます。
この一年間、神様は、真実に働いて下さいました。このことを大いに喜び感謝しましょう。
そして、来年も真実な神様のお働きは変わらないことを信じて、新たな一歩を踏み出すことにしましょう。