「キリストへ導く」

 今日私たちは、クリスマス礼拝を捧げています。
クリスマスの挨拶は、皆さんご存知のように「メリークリスマス」です。「メリー」は「とても楽しい」という意味だそうです。つまり、「とても楽しいクリスマスです」と挨拶をしているのです。喜びあふれる挨拶です。
では、何故多くの人はクリスマスを喜ぶのでしょうか。
それは、イエス様がお生まれになったことを記念するのがクリスマスだからです。
イエス様のことを、イエス・キリストとも言います。イエスは名前です。それでは、キリストはどういう意味でしょうか。キリストはある種の職名であり、旧約聖書で使われている源語のヘブライ語ではメシヤ、それが新約聖書の源語のギリシャ語ではクリストスとなり、それが日本語に訳されるとキリストとなります。そのキリストの意味は「救い主」ということです。ですから、イエス・キリストとは、イエスというお方は救い主であるという意味がそこに込められているのです。
聖書はこう記しています。
「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」(マタイ1:21)
イエス様は私達を自分たちの罪から救ってくださるお方です。罪から救われると言うのは、喜びと平安、感謝が満ち溢れる永遠のいのちが与えられると言うことです。この救いの約束がクリスマスに表れています。人は自分の力で自分を救うことができません。救い主が必要です。
今日共に読みました聖書箇所には、キリストに会うために旅をした人たちの話が記されています。旅をしていた人たちがどのような人々であるかがこのように記されています。
「イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました」(マタイ2:1-2)
彼らは東方の博士たちでした。東というのは、現在のイラクあたりだと考えられています。そうすると直線距離でも一千キロを超える遠い場所です。当時は歩いての旅であったため、それよりはるかに遠い距離を旅して来たはずです。長い時間をかけて、多くの苦労をしながらエルサレムにたどり着きました。
彼らがこの厳しい旅を続けた理由は何であったのでしょうか。
それは、キリスト(救い主)がお生まれになることを示す星が現れたからです。彼らはその星がキリストのおられる場所まで導いてくれることを知って、星について来たのです。キリストに会いたいという願いが彼らにあったのです。そして、星が光り続ける限り、その星に導かれて旅を続けられたのです。
「千里の道も一歩から」という言葉がありますが、誰にとっても未知の世界へ一歩踏み出すことは不安を感じてしまうことでしょう。しかし、一歩踏み出すことなしでは千里の道への旅も始まりません。
この一歩を後押しするものが希望です。博士たちにとってこの星はキリストへの希望を与えるものでした。
この希望を別の言葉で言えば、信仰と言えます。信仰は漠然とした希望ではなく、約束ある希望、根拠ある希望なのです。
私たちの教会は今年4月に初めての礼拝を捧げましたけれども、それまでにはいろいろと難しいことがありました。しかし、私達に信仰が与えられ、初めての礼拝を捧げることができました。この働きは主の働きであると確信が与えられたのです。最初の礼拝の様子、鮮明に覚えています。礼拝へ来られた方々もよく覚えています。なぜならその方々が全員今ここにおられるからです。そして、ご覧のように私たちは今こうしてクリスマス礼拝を共にささげています。これがどれほど嬉しいことかは言うまでもありません。私たちは人の力や自分たちの経験に頼ってここまで来ることができたのではありません。ただ、主を信じる信仰のみが私達をここまで導いています。そして、これからも私達を導き続けるのはキリストを信じる信仰です。私たちが信仰を失わない限り私たちの教会は礼拝を捧げ続けられます。東方の博士たちが遠い旅路をあきらめることなくエルサレムまでたどり着いたように、私達も共に御国までへの旅路を、信仰をもって歩み続けましょう。

「混乱する時もある、しかし」

 博士たちはエルサレムに着いて、ユダヤの王であるヘロデを訪ねました。彼らを導いてくれた星はユダヤ人の王としてお生まれになる方の星だったので、当然ユダヤの王の家に生まれると思ったでしょう。しかし、そこにはおられなかったのです。こう記されています。
「それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も同様であった。そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちを集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。」(マタイ2:3-4)
彼らはこのことを予想できなかったでしょう。神様のなさる事は人の思いで計り得るものではありません。それが時には人を混乱させることもあります。
私たちは神様の導きを受けている時でも、たまには自分たちの思いや知識を頼ることがあります。東方の博士たちがキリストがユダヤの王として生まれるから王宮におられると思ったように。
私たちはここで礼拝を捧げることにおいて、まず神様の導きを受け、そしてそれを信じて始めることにいたしました。始めるにあたって、持っていた期待が見事に外れたこともいくつかありました。かなり混乱しましたが、振り返って見ると、自分たちが願うままに神様が導いてくださると思い込んでいたことが教えられています。もし、すべてが私たちの期待通りになっていたら、おそらく私たちは神様の導きより自分たちの力に頼ろうとしたかも知れません。
東方の博士たちももしかしたら、自分たちの期待とは違った状況で混乱していたかもしれません。しかし、このことにおいても神様は着実に彼らを導いてくださっているのです。つまり、メシヤが生まれる場所をより正確に、確実な約束に基づいたものとして彼らに教えてくださったのです。
「彼らは王に言った。ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。」
博士たちは、ヘロデ王の家に、キリストがおられないことを知り、混乱したかもしれません。しかし、神様はそれを通して、彼らの行くべき道を教えてくださったのです。
このように、キリストを求めて行く旅は、神様から示され、神様ご自身が導かれるものです。旅をするのは博士たちですが、その内容は「神様による、神様が導く旅」と言えるのです。それゆえ、旅の厳しさを乗り越えることができます。そして、混乱があってもまた正しく導かれるのです。
「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じています。」(ピリピ1:6)
主によって始められたことは必ず主によって完成されます。
私たちの教会の歩みも主によって始められています。途中混乱があるかもしれません。しかし、そのようなことがあったとしても主は変わらず私達を導いてくださいます。このことを心に留め、次の一歩を踏み出しましょう。私たちは必ず主ご自身の導きをはっきりと体験することができます。

「最高の喜び」

 エルサレムからベツレヘムに向かって出発したら、星が彼らを先導してくれました。そして、キリストがおられる家まで彼らを導いてくれたのです。このように記しています。
「彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。そして、その家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。」(マタイ2:9-11)
東方の博士たちは、この上もなく喜んだと記しています。この時を彼らは長く待ち続けました。旅の厳しさにも耐えました。混乱することも経験しました。しかし、主の導きによってついにキリストにたどり着きました。そして、喜びをもって贈り物を捧げているのです。
この博士たちの喜びはこの教会に集っている私達も体験しているものではないでしょうか。
私たちは、ここまでたどり着くのに長い旅をしてきたのです。ひとり一人が歩んで来られた道は様々です。しかし、その歩みは常にキリストに会いたいという願いと希望によるものではなかったでしょうか。私自身を含め、私達は主によって導かれ、今共に礼拝を捧げているのです。
何より感謝なことは、私達にはここで、キリストに出会った喜びが与えられていることです。この教会はキリストに出会う喜びが満ち溢れる教会です。礼拝の中で豊かな恵みを受けているのも、私たちがキリストに出会い、またキリストにつながっているからです。楽しい交わりができるのも、キリストに出会った喜びのゆえに、互いを喜ぶことができているからです。
キリストに出会った喜びがあふれるから、感謝をもって進んで捧げものを捧げているのです。東方の博士たちがキリストに出会って、喜びの中でささげていたように私達も今この教会でそうしているのです。私はキリストに出会う喜びこそ、教会が歩み続けられる力になると思います。キリストこそが私たち教会の目的であるとも言えます。
主は、キリストを目指して長い旅をしていた博士たちを最後まで守り導いてくださったのです。
「それから、夢でヘロデのどころへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った」
博士たちのように私達にも帰るべき国があります。博士たちを別の道へと導かれたように、主は私達を御国に導いてくださいます。それは今まで歩んで来られた道とは違う、別の道かもしれません。しかし、主の導きがある限り、それがどのような道であったとしても私たちは守られ、導かれるのです。
これはキリストに出会った者だけが頂く最高の喜びです。このクリスマスの時期を通して、キリストに出会う喜びが私達に豊かに与えられますようにお祈りします。