「喜びと平和の約束」 イザヤ9:1-7 2015年12月13日 北松戸福音教会 都鍾倍

今日の聖書箇所は、イエス・キリストがお生まれになる約700年前に、預言者イザヤを通して神様が言われた約束の御言葉です。イエス・キリストの誕生に約束されていることが何か、私たちが受ける恵みが何であるかが良く教えられる御言葉です。期待をもって共に耳を傾けましょう。

「暗闇へ光が照る」

「しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブロンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは栄光を受けた。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」(イザヤ9:1-2)
長い間やみの中で苦しめられている地域に光が照ることへの約束です。
この約束は、イエス・キリストがこの地においてご自分の働きを始められたことによって成就されました。イエス・キリストのお働きによって、この地域の多くの人々が病気や悪霊の苦しみから解放されました。
主は、このように深いやみの中で苦しむ人々に、救いの光を与えて下さいます。
やみに光が当てられるので、そこには当然変化が起こります。絶望が希望に、悲しみが喜びに、そして必ず争いがなくなり平和が訪れるのです。

本日交読しました、ルカの福音書にザアカイという人物が出てきます。
彼は取税人組織の頭でした。多くの財産も持っていましたが、同じ町の人々からは嫌われていました。それは恐らく彼が不正な方法で財産を蓄え、さらに敵国のために働く者だったからです。そして、彼は背も低かったので、自分の外観からの劣等感もあったようにも考えられます。その彼を町の人々は「罪人」だと断罪していました。彼の中には深い孤独感と人への憎しみもあったことでしょう。それゆえ、彼は人の物をだましとったり、また貧しい人への哀れみも持っていませんでした。
このような彼に一つの転機が訪れます。世間を騒がしているイエス・キリストが自分の町へ来られるという話を聞いて、彼はイエス・キリストを見に行きました。多くの人のせいか背の低い彼はイエス・キリストを見ることができなかったのです。それで、慌てて近くの木に登りました。
その時、イエス・キリストが彼の名前を呼んでくださいました。「ザアカイ」と。
彼は一瞬こう思ったかもしれません。「この方はどうして私の名前を御存じだろうか。不思議だ。しかも、町の人々から嫌われるこの私を呼んでくださっている。」

しかし、その驚きは彼にとって大きい喜びでもありました。彼は急いで木から降りて来て、イエス・キリストを自分の家に招き入れました。そして、彼は驚くことを言いました。貧しい人のために自分の財産の半分を施し、だまし取ったものは4倍にして返すと言うことです。彼の中に大きい変化が起こりました。
イエス・キリストに出会って、彼の人生に光が当てられたのです。今までの自分の生き方を捨てて、新たな生き方への決心をしました。イエス・キリストはこのザアカイのことをご覧になってこのように語られます。
「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのです。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(ルカ19:9-10)
実は、イエス・キリストに出会った人は誰もがこのような変化を体験します。私達ひとり一人がこの変化の喜びを体験した者です。キリストに出会う者は誰もが苦しみから解放されます。やみの中から光の中を歩む者となります。私たちはザアカイのようにイエス・キリストに出会って、生き方が変えられた者達です。

「苦しみがよろこびへ」

イエス・キリストは私たちの苦しみを取り除き、平和と喜びを与えて下さるお方です。
次のように記されています。
「あなたはその国民をふやし、その喜びを増し加えられた。彼らは刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜んだ。あなたが彼らの重荷のくびきと、肩のむち、彼をしいたげる者の杖を、ミデヤンの日になされたように粉々に砕かれたからだ。戦場ではいたすべてのくつ、血にまみれた着物は、焼かれて、火のえじきとなる。」(イザヤ9:3-5)
「戦場ではいたすべてのくつ、血にまみれた着物は、焼かれて、火のえじきとなる」ということは、一次的には敵の敗北を意味しますが、同時に戦争そのものがなくなるという意味もあります。
それは不可能なことのように思われます。私たちは物理的な戦争だけではなく生きることにおいても様々な戦いを経験しているのです。私たちが生きている限りそれはなくならないと思われます。しかし、主は必ずそうなると約束されているのです。どうしてそれが可能でしょうか。
「ミデヤンの日になされたように」と記されています。これは、戦争に勝つことが人の力ではなく主の力によって決まるということへの教えです。300人の兵士で、120,000人の敵に勝利を収めること。主がなさってくださった奇跡です。
私たちの生涯において、私達を抑えているすべての苦しみや心配ことから解放され、平和と喜びを得ることは主の力なしでは不可能なことです。

最近私は、知っているある女性の言葉に大きい励ましを受けました。
彼女は幼い時に、ご両親が離婚をしました。よって結果的に自分の意思とは全く異なる歩みを強いられました。兄弟もいなかったので、祖母と共に生活しながら、自分なりに強がって成長してきたようです。あえて、無理して堂々としていたところもあった様です。
結婚もして、子供も授かりましたが、母親がなくなり、兄弟のいない彼女は、母親の愛情を身近なものとして感じる機会がほとんどなくなってしまったのです。感謝なことに彼女はイエス・キリストに出会い、信仰生活を送っていました。しかし、どうしても自分の人生への疑問に対して答えを見つけることができず、日々戦いの中にあったと言います。そして、彼女がこう言いました。
「私の人生、自分の意思とは異なって、他の人はしなくてもよい経験を強いられています。毎日が戦いであります。でもその中で一番の悩みは自分自身が変わらないことであります。もう大人になって、母親にもなってどう生きるべきかは分かっているつもりなのに、そのように生きていない自分がいます。この世の中で一番強い力はこんなにもかたくなな自分を変えてくれる力ではないかと思います。そしてその力は神様にしかないことが良く分かります。とてつもなく大きい悩みがあり葛藤があったとしても、み言葉が与えられるとその状況を受け入れられるようになってすべて解決できます。死ぬほど苦しいことだったのに、神様の御言葉一つで問題でなくなります。状況は何も変わっていないけど、自分の中には喜びと感謝があふれ、心に平安が与えられます。このようなことを経験が重なるたびに自分の人生にも必ず神様のご計画があり、そこには恵みがあると信じられます。」

私は大きい励ましを受けました。状況は変わらないかも、また変わるかも知れない。しかし、自分が変えられて力が与えられれば状況そのものは大きい問題とならない。それはそれにも意味があり恵みがあるからだと。
私たちの生きる間に起こるすべのこと、私たちの力ではどうしようもできないことがこれからもあるでしょう。しかし、ミデヤンの日のように、主の力が私達を助けてくださるのです。私たちはその主によって苦しみに打ち勝ち、平和と喜びに満ちた生活ができるようになります。

「みどりごの誕生によって」

 このすべてのことは一人の男の子の誕生とともに約束されていることです。

「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅くたて、これをささえる。今よりとこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」(イザヤ9:6-7)
誕生する男のこの名前を「不思議な助言者」、「力ある神」、「永遠の父」、「平和の君」と記しています。
これは、この子が神様であることを表しています。
やみの中、苦しみの中にいる人々のための光であるお方、力をもってご自分の人々を助けてくださるお方は神様だと言うことです。まさにイエス・キリストがその神様であることを教えています。

このイエス・キリストがお生まれになったことを記念するのがクリスマスです。神様ははるか昔から私たちのためにイエス・キリストを送ってくださると約束されました。そして、それを成就されたのです。イエス・キリストを信じる者は誰でも、苦しみから、やみから救われるのです。すべての人を救いに導く神様の力がイエス・キリストにあります。永遠のいのちを与えて下さるのです。
その上、私たちが生きている間に、ともに歩んでくださるお方です。日々の悩みや問題を乗り越える力を与えて下さるのです。私たちの知恵では考えられない不思議な助言者であり、私達を父のように愛してくださるお方だからです。

この方を信じる者は、この方によって必ず守られすべての歩みが導かれます。それは「主の熱心がこれを成し遂げる」との主ご自身の約束です。主は熱い心をもって私たちの救いのためにイエス・キリストを与えられました。それだけではなく、イエス・キリストを信じる人々を熱い心をもって愛され、生きる間守ってくださるのです。

クリスマスの喜びは、救いと導きへの神様の熱い心であり、堅い約束の故です。その主を信じましょう。